屋台赤道ラーメン代表。泡瀬店・中の町店・首里前店・石川店・赤道店と店舗数拡大中。本場仕込みのこだわりラーメンを沖縄の人々へお届け致しております。
独立への思い
二十歳の頃、東京の飲食店でバイトをしたのがきっかけで接客の楽しさを知り、お客様においしい料理を提供することで喜んで頂ける・・ こんなすばらしい仕事はないと思うようになっていき、沖縄に帰ったら自分でお店を持ちたいと夢が日増しに膨らんでいきました。
22歳で沖縄に帰郷し、某美容会社に勤めたもののサラリーマンという仕事が性に合わず半年で退社。
自分の店が持ちたいという夢が今思えばさまざまな出会いや道を示してくれていました・・・
製麺会社に就職し、麺や餃子の皮の製造を習得。その後、23歳で友人と餃子専門店を開業、デパート、スーパーで祭事や物産展に出品していました。
しかし、本土で食べたなつかしい屋台のラーメンの味と雰囲気が忘れられず、当初沖縄ではめずらしい“移動型屋台のラーメンカー”を試行錯誤しながら友人と手づくりで作り、屋台ラーメン店をスタートさせたのが夢の第1歩でした。
歩み始めた夢への第一歩...その栄枯
南は那覇国際通りから北は恩納村まで、お昼過ぎから仕込みに入り、夜9時にオープンさせ明方6時まで営業、それから片付けをして眠りにつくのは朝9時頃でした。仕事はハードでしたが毎日がとても充実し、お客様との出会いや常連さんとの会話に花が咲きとても楽しかったのを思い出します。
仕事とはいえ、睡眠は毎日3・4時間、日によっては1・2時間しかとらないこともざらにあり、不規則な生活に体がとうとう悲鳴をあげ、私は倒れてしまいました。
家族が心配し、夜型の生活から昼型に変更するようすすめられたので店舗のラーメン店を開業、景気も良く繁盛していましたので4店舗まで広げていきました。
しかし、その頃バブルがはじけ、しばらくして店舗近くにラーメン店が数件参入、阪神淡路大震災やオウム真理教事件等の影響もあり、売上は思わしくなくなり、だんだんと低迷、とうとう店も新築の家も手放すこととなりました。
再起、そして今なお成長し続ける企業へと
しかし、親友や知人の励ましサポートを受け、家族の支えもあり、心機一転うるま市赤道(あかみち)で一から移動型屋台ラーメンをスタートさせる事になり、そこで得た資金を元に現在の店舗型の屋台赤道店、泡瀬店、中の町店、北中城店、石川店と拡大させて行き、2008年には、北中城村にセントラルキッチン屋台赤道ラーメン本部を構え、のれん分けしたFC普天間店、FC真栄原店が加わり、2012年4月那覇首里駅前にFC首里駅前店、2014年11月に美里店オープンし、2015月11月にFC那覇ライフセンター前店も加わり、2017年5月11日には法人化し「株式会社イクソス沖縄」となりました。長年支払ってきた多額の借金も返済を終えることができ、多くの人に支えられて今の自分がいることに心から感謝して毎日を送っています。
これからは、人々や社会に少しでも多く貢献していく企業として成長していきたいと思います。